契山館 千葉分会ブログ

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貼られたレッテルを越えて

【投稿者:ヒカル】

電車を降りようと扉が開くのを待っていると、扉の向こう側に、
どこかで見たことがある女性が電車に乗ろうと同じく、
扉が開くのを待っている。

よく行く喫茶店の女性店員である。

彼女も私を見て気が付いたようだ。

少し前の、日の当たらない陰鬱な表情に、突然、太陽の光が射したように
彼女の表情はパッと明るくなった。

「こんにちは、お疲れ様です。」

その言葉を予期せぬ贈り物のように私は彼女から受け取り、

「どうも、お疲れ様です。」
軽い会釈と笑顔で同じく与え返す。

ほんの一瞬、ただそれだけのやり取りだが、自分の気持ちは生き生きしてきた。
(くれぐれも変な意味ではありません。)

茶店で彼女を見た印象は、「表情が暗いな」であった。

マネージャーらしき人から、仕事の遅さをイライラされて、
注意されていたことが思い出される。

表情が暗く見えたのは、仕事に対する不満みたいなものが
滲み出ていたからかもしれない。

けれどもホームで見た彼女の笑顔には、生き生きした明るい表情があった。

 「こういう表情も持っているんだな」印象がガラリと変わった。

 

人それぞれ社会の中で生きるにあたり、アイデンティティを持っている。

国籍、性別など大きな括りは置いておいて、
職場や学校、家族、友達の中の「私」を演じなくてならない。

人間は「分からないもの」として物事を放っておけない性なので、
何かしらレッテルを貼ろうとする。

「彼は気が短い」「彼女は嫉妬深い」…

いつしか決めつけられて、知らぬ間に本人も決めつけに従おうとする。

しかし、そのレッテルを剥がしたところに、新鮮な喜びや発見を感じるのもまた、
人間の性であるということも、同時に思えてくるのであった。

 

宗教には洗脳というレッテルを貼られるのが現代社会なのかもしれない。

そのレッテルが貼られた原因は、宗教組織が大きな犯罪を犯したことと
それを報じたマスコミにあると私は思う。

 

さて、契山館は周囲の人の目にどのように映るのであろうか? 

ネガティブなレッテルを貼られているかもしれない。

もしそうであるとしたら、そのレッテルを覆すための活動が
契山館の霊的修行者の広報活動ということになるであろう。

否定や拒絶から、受容や寛容へ。

そして喜びや感謝へと変容していく流れがいつの日か来ることを
私は信じて疑わない。